パスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』2012.4.20読了 ★★★★★
長い旅だった。
丸二週間、息が苦しくなるほど美しい言葉に包まれてリスボン中を旅した。素晴らしい体験ができた。
この本に出会えてよかった。目的もなく書店の本棚を眺めていてタイトルに惹かれて手に取った偶然。考えてみれば、それは本書の主人公グレオリウスがアマデウ・デ・プラドに出会ったのと同じだ。やはりアマゾンだけでは世界は広がらないんだ。
スイス人哲学者による「哲学小説」。数行読むたびに自分の中で思索が始まる。だから読むのに時間がかかる。
「生と死」「他者と自己」「神の誤謬」「時間 今と過去、未来」「肉体の苦痛」「執着心」「友」「正義」「レジスタンス」「父と子」「母と子」。
たとえばサルトルやカミュやドストエフスキーを読んだり、上に書いたような要素と正面に向き合って悩み当時の友人たちと激しく議論しあったりしたのは自分が十代半ばの時だった。それに、『嘔吐』のアントワーヌ・ロカンタンも『罪と罰』のラスコーリニコフも若者だ。
グレゴリウスは50代も後半のくたびれた中年男だ。彼がリスボンで出会う人々の多くは、老人だ。だからこそ、50歳を越えた今の私にはとてつもなく意義が深い。自分と厳しく向き合うという行為は、若者だけの特権でも義務でもない。それを思い知らされた。
グレゴリウスは、ベルンの学校(ギムナジウム)で古典文献学を教える教師。ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語に精通し、また聖書や古典に対する深い知識から、皆に「ムンドゥス(世界)」と敬意を込めた異名で呼ばれる男である。一方で嫉妬から「パピルス」とも仇名されている。時間に厳格。ずいぶん前に離婚をして現在は一人暮らしをしている。まさに学究の徒である。
その朝は土砂降りだった。いつもの時刻にいつもの道を通って学校へ向かっていた彼は、橋の欄干から身を乗り出す女性を発見する。飛び降りるつもりだ、と直感した彼は助けに走る。
その女が発した言葉、「ポルトゥゲーシュ(ポルトガル語)」、ただそれだけが彼の全てを変えた。女はすぐに立ち去ってしまうのだが、彼にはその言葉が深く突き刺さったままだった。熱病にかかったかのように彼はポルトゥゲーシュを求めてベルンを歩く。そしてついに本屋で、ポルトゥゲーシュで書かれた一冊の本と出合うのだった。リスボンの医者アマデウ・デ・プラドの書いた本だった。
グレゴリウスは、すべてを投げ捨てて計画もないままにリスボン行きの夜行列車に乗る。
そして、行き当たりばったりにプラドの生きた道を辿っていく。しかしそれはグレオリウスによる自分自身を探す旅でもあった。
最後の一行まで美しい小説。あと数日余韻に浸るために新しい本を手に取るのは止めようかな。

「我らの人生は 死である海へと 向かう川だ ホルヘ・マンリケ」
「今朝から、人生においてなにか別のことをしてみたいという気持ちなんです。もうあなたがたのムンドゥスではいたくないと感じています。新たなものとはなんなのかは、わかりません。でも猶予はならないんです。ほんの少しも。私の時間は過ぎ去っていこうとしています。もうあまり長くは残っていないかもしれないんです」
「独裁性が事実ならば、革命は義務である」
「私はこの外見、この雰囲気どおりの男であったことはない、と私は思った」
「お前は自分のことを重要視しすぎているな」
「もういちど人生のあの時点に立って、現在の私を私たらしめた道のりとはまったく違う方向へ向かいたいという望み-夢のようにはかない、悲壮な望み-私の背後にある時間を戻す旅に出たい、けれど同時に私自身を-過去の出来事によって形作られたいまの私という人間を-その旅に連れていきたいという、なんとも不条理な望み」
「虚栄はひとつの埋もれた愚鈍の形ですよ」
「葬儀は周りがすることです。死者自身はなんの関係もない」
「ガレー船の奴隷は鎖につながれていました。ですが、自由に考えることはできました」
「目が覚めて、突然悟ったんだ。このピアノにふさわしい演奏ができるようになるなんて、この人生ではもうどうあがいても無理なんだって」
「人を不幸にするのは
人生を完成させ、全きものにするための経験をすることは、この先ももう無理なんだと知ることだ」
「忠誠心をはぐくむもの
相手への恩義、発展に向かう共通の歩み、分かち合う苦悩、分かち合う喜び、死すべき者どおしの連帯感、共通の価値観、外界に対する共通の闘い、共通の長所と短所、共通する相手との距離感、共通の趣味、共通の憎しみ、分かち合う秘密、分かち合う空想と夢、分かち合う感動、分かち合うユーモア、分かち合う英雄、共に下した決断、共通の成功と失敗および勝利と敗北、分かち合う失望、共通の過ち」
「このリストには「愛」が載っていませんね、とグレゴリウスは言った。」
「母は疲れた目でこちらを見ていた。もう一度海を見ることさえできたらねえ。でも、そんなお金はないものね。」